常若のビジョン論

昨日はうだうだと常若という概念についてみてきましたが、

正月休み中に、ビジョナリーカンパニーシリーズを読み返したので、それに関連にて、ビジョンと常若について。

「起業するにあたっては、まず自分がその事業を行うことによってどんな世の中を作りたいのか、つまり事業のビジョン(将来像)を描きましょう」というのは最近では、教科書の1ページ目にでてくるお話なので皆さんも耳にしたことがあると思います。

さらにこのビジョンを実現するためにその事業与えられたミッション(使命)は何かを整理しましょう、というところまでをセットにした、いわゆるビジョン・ミッション掘り起こし系セミナーやワークショップは至る所で行われています。

ビジョンとミッションを合わせた形で経営理念とすることもあり、こちらの方がもっと身近かもしれません。

最近では、名刺の裏に、自社のビジョンやミッションを書いてる人も珍しくありませんし、事業プレゼンの初めに、この事業のビジョンはこれこれです、という説明が入るのは定番中の定番です。

しかし、僕は、このビジョン信奉ともいうべき状態には非常に懐疑的で、中小ベンチャーにとってミッションやビジョンに比重を置きすぎることの弊害がかなり出ているのではないかと考えています。

例えば、僕のところにくる起業志望者の中のかなりの数の人が、自分の事業のビジョンや経営理念をうまく掲げられないことに悩んでいます。

ビジョンがなくて何か困ったことがあるのかを聞くと、いろんなセミナーにいったり先輩に相談すると、まずビジョンをもてと言われるんだけど、何も出てこないんです、というパターン。

ビジョンが定まらないからという理由でやりたい事業を始められないという人にさえ出くわしたことが何度もあります。

でも、事業においてビジョンってどうしてもなくてはならないものなのでしょうか。

そもそも、このビジョンだとか理念だとかが大事だという言説が流布しだしたのは、ジム・コリンズらの『ビジョナリーカンパニー』の大ヒットあたりからだと言われています。(理念経営が大事というのはもっと昔からあったのでしょうが。)

 

偉大な企業は、すべからく素晴らしいビジョンを掲げている、であるならば偉大な企業を目指す企業全ての企業は、ビジョンを掲げなければならない。

というある意味では非常にわかりやすいメッセージは説得力があり、猫も杓子もビジョンを掲げようという風潮ができあがりました。

しかし、実はこの本が扱っているのは

「偉大な実績をあげている企業を、偉大さが永続する卓越した企業にする方法」であって、

「偉大な実績を持続できる企業に飛躍させる方法ではない」ことを著者であるジム・コリンズ自身が続編において認めています(ビジョナリーカンパニー②飛躍の法則)。

 

そして、どうすれば偉大な企業を作れるのかをテーマにしたこの続編においては、このビジョンの位置付けについて、

『今回の調査をはじめたとき、良好な企業を偉大な企業に飛躍させるためにはまず、新しいビジョン、戦略を策定し、つぎに新しい方向に向けて人びとを結集するのだろうとわれわれは予想していた。調査の結果はまったくの逆であった。偉大な企業への飛躍をもたらした経営者は、まずはじめにバスの目的地を決め、つぎに目的地までの旅をともにする人々をバスに乗せる方法をとったわけではない。まずはじめに、適切な人をバスに乗せ、不適切な人をバスから降ろし、その後にどこに向かうべきかを決めている。』

と述べて、ビジョンありきの起業が成功への必要条件ではないことを率直に認めています。(②はほんま名著ですよ。)

また、我が国の成功した経営者の軌跡をみても、創業時から崇高なビジョンを掲げてそれに向けて一直線に進んでいったという事例はほとんどありません。

(全く無いとは言いませんが。ただ、うちは一貫したビジョンでやっています、という会社のビジョンをよくみると、『21世紀を代表する企業になる』というようなそれって事業の将来像としてのビジョンといえるのだろうかと疑問符がつくものであることも多々あります。)

あの孫正義も創業時から情報通信革命を起こそうとしていたわけではありません。

松下幸之助だって水道哲学を言い出したのは、創業して15年ほど経ってからです。

本田宗一郎がオートバイ研究を始めたのは、妻の自転車にエンジンをつけたら買い出しが楽になる、と思いついたからだそうです。

YouTubeは、初めはムービーをアップできるデートマッチングサイトで、グルーポンは、もともと集団署名集めのためのサイトでした。

崇高なビジョンを掲げられなくても事業を始めていいんです。

もともと商売って自分と家族と仲間が食べていくために始めるもんなんです。

ただ、誤解してもらいたくないことは、マネジメントにおいてビジョンやミッションの策定に意味がないと言いたいわけではありません。

ビジョンやミッションの意義は、目的意識の共有にあります。

組織が大きくなり、スタッフが増え、債権者や株主といった利害関係者がどんどん増えていったときには、その中でコミニケーションを円滑化するために、企業としての大きな方向性を共有しておく必要があります。

そんなとき、経営者や企業のこれまでの歩みから紡ぎ出してした、ビジョンやミッションがあれば、それはこの先の歩むべき道を示す道しるべになるでしょう。

また顧客に対してのブランディング効果としてもビジョンを掲げるということは、顧客に同じ物語に参加してもらうという絶大な効果があります。(この物語参加型マーケティングについては、後述します。)

ここでわかることは、経営者や企業のこれまでの歩みから紡ぎ出されてきたビジョンこそ魂のこもったビジョンであり、真に世に問うべきものだということです。

そしてそれは机の上で云々うなっていても出来上がるものではありません。

がむしゃらにもがいて、動き続ける中で振り返れば轍ができ、それを未来に向ける方向で抽象化して文章化するのです。

真のビジョンは作り出すものではなく、降りてくるもの、といったほうがいいかもしれません。

また、ビジョンについては、一度定めたらブレるなとよく言われます。

ミッションについても、達成できるまで徹底的に追い求めるべき、と考えるのが一般的でしょう。

しかし、僕は、ビジョンもミッションも、違和感を感じたら徹底的に考え抜いて、仲間と議論して、変えるべきときはどんどん変えればらいいと考えています。

むしろ、ビジョンを打ち立てたときから、既に次のビジョンの構築への営みが進行しているという心構えが必要です。

常若ですね。

時代の流れというのは、人、物、金の流れのスピードで決まり、それを支えるのは技術の進歩です。

地球の裏側と一瞬で繋がり、頼んだ荷物が当日届く時代です。

もはや20年先も変えずにいられるビジョンやミッションなど存在しないといってもいいでしょう。

(もちろん、豊かな社会をつくる、というビジョンは永遠に妥当するだろうがこのレベルまで抽象化されたビジョンは企業の行動規範にも事業計画指針にもなり得ません。ここでいうビジョンとはもう一段階具体化させた将来像のことを指しています。)

簡単に作れてしまうものは簡単に役立たなくなり、簡単に作り上げられないものは長持ちします。

とはいえ、練りに練ったビジョンさえも、次の建て替えに向けてまた練り続けなければなりません。

常に事業を振り返り、行ってきたことはビジョンに向かっているかを省みるとともに、今のビジョンはこの先も生きたビジョンであり続けるかを問い続けなければならないのです。

目をつぶってはいけません。建て替え続けることで生き残ることができるのです。

どんなすごい起業家も、神様ではありません。

初めから崇高なビジョンなんて立てられなくて当たり前です。

がむしゃらに試行錯誤しながら、失敗して、ちょっとうまくいってはまた失敗して、三歩進んで二歩下がるを繰り返しながら、進んでいくしかないのです。

その過程の中で、自然と培われていく自分たちの精神性というのがきっとあります。ここは大切にしていこう、という部分です。

ビジョンやミッションを作り替え続けながら、その大切にしたい精神を伝承していく、それが常若のあり方です。

目指すべきものの前に、守るべきものは何かを見つめてみましょう。

実はあなたの事業の価値の源泉はそこにあったりもします。

踏ん張りましょうょう。

ビジョナリーカンパニーをはじめとするビジネス本を平均回帰の観点から叩き切っていると箇所なんか非常に面白い。

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