般若心経について学んだこと

父親が早逝してからというもの、うちのおじいちゃんは毎晩仏壇に向かって般若心経を唱えるようになりました。

幼少の僕は当然サンスクリット語を理解できるわけもなく、

ぼーっと読経を聞いていたんだけど、

不思議なもので、ある日突然、

般若心経を諳んじられるようになりました。

人間の脳ってすごい。

それからというもの、仏様に手を合わせるときは、できる限り丁寧に般若心経を唱えることにしています。

とはいえ、意味のわからん呪文を唱え続けるのは僕の性格上耐え難く、
〔洋楽とかJ-POPの歌詞の内容理解できない歌を聞くのもすごく苦痛です。。。〕

折をみては、般若心経の解説本の類に手を伸ばしてきました。

般若心経は丁寧に唱えても1分程度で終わる極めて短いお経にもかかわらず、

夥しい数の解説書が市中に出回っています。

そして、その内容は解説書ごとにかなり差があります。

どれが正解という話でもないのでそれが問題というわけでもないのですが、

一応僕の中で、だいたいこういうことちゃうかと理解できたような気がするところもあるので、

備忘録として、ここに残しておきます。

まず、般若心経における、核となるフレーズは、

有名な、

色即是空 空即是色

です。

これは要するに、

人間が認識できるもの〔色〕は一見それ自体自立してるように思えるけど、実際は自立していない(空)のだ、

というぐらいの意味です。

分かる、とは文字通り、分けることであって、

西洋科学文明的には、世の中の事物や概念をできるだけ細かく分けていくことが真理に近づいていくことなわけですが、

実は結局全てはつながっていて、イチブトゼンブは分けられないんだ、

というのが色即是空空即是色なんです。

〔驚くべきことに、西洋文明の最高到達点である量子力学の発展は、実は全ての物質は連結し影響を与えあっているという結論に近づきつつありますが、この話は長くなるので割愛。〕

とはいえ、全てのものはつながっている、ということを頭で理解するというのは実は原理的に難しい。

だって、人間が頭で理解するためには、事物を概念という形で整理しないといけないところ、

色即是空空即是色というのは、概念という概念自体をもつな、という話だからです。無限ループ。

原理的で頭で理解することが難しいとしたら

あとは体で感じて理解するしかない。

お経を唱えることで、宇宙とつながる

自己と宇宙の一体感、色即是空空即是色を体感することこそ真理への近道なので、

がんがん、お経を唱えましょう。ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃてーって唱えまくりましょう。

というのが般若心経の大意です。僕の理解では。

お寺って、音が響きやすい御堂があって、その中でお香をたいて神経高ぶらせて、木魚や鐘叩いたりして音響かせて、集団で読経するわけですが、

実はそれって全部、

お経を唱えるときにその波動で、宇宙と自分が繋がってることを体感しやすいようにサポートしているブースト装置になってて、実によくできてる。

今さらサンスクリット語のお経なんて唱えても仕方ないでしょ、という気持ちもわかるけど、

般若心経自体もすごく音律のいいお経で、唱えてるうちにどんどん自分と宇宙が一体化していくようにイメージをつくっていける。

色即是空空即是色が真理かどうかは僕にはわからないけれど、

このお経を中心とした色即是空体感システムってすごいなと思います。

内容が理解できていなくても、お経を唱えさせすればいいというのは、不埒に思えて実はそうじゃないということ。

このことを知って、幼少期の僕とおじいちゃんの想い出がいかばかり救われたかわかりません。

お寺で写経ブームとかいわれて久しいですが、

般若心経って結局なにいうとんねん

と思ったときに、この記事のことを思い出してもらえたら幸いです。

This entry was posted in ブログ. Bookmark the permalink.